とちぎ蔵の街美術館は、およそ200年前に建てられた土蔵3棟を改修し、平成15年3月に開館しました。通称「おたすけ蔵」として市民に親しまれてきたこの蔵は、栃木市に現存する250を超える蔵の中でも最古の土蔵群に属する大規模な蔵として、栃木の歴史を見つめてきた記念碑的な建物といえます。

当館は、重要無形文化財保持者(人間国宝)を中心とした現代陶芸作家と本市にゆかりの深い美術工芸作家の作品を収蔵し展覧するとともに、国内外の優れた美術作品を紹介しています。また館内の蔵の展示室では、この蔵に関する歴史的資料を展示しています。
漆喰でできた重厚な壁や天井を走る巨大な梁が織り成す空間と美術品との競演は、展覧会毎に変化に富んだ表情を見せてくれます。様々な美との出会いを通じて豊かな感性を創造するとともに、蔵の街とちぎの魅力を堪能していただきたいと思います。
当美術館を含む土蔵群は「おたすけ蔵」の名で知られ、江戸時代から続く善野家(釜佐)の土蔵です。善野家の先祖は近江商人で、延享年間(1744~1748)に同じ町内の善野喜兵衛より分家し、その後、米などを扱うほかに大名などを相手とした質商も営んで、栃木を代表する豪商となりました。蔵の名称は、江戸時代末期に困窮人救済のため多くの銭や米を放出したことに由来するとも、また失業対策事業として蔵の新築を行ったためとも言われています。
屋敷内には大通り沿いの店舗に続いて文庫蔵を取り込んだ大規模な住居部分があり、これら三棟の土蔵はその奥に位置します。店舗・住居・土蔵群という構成は栃木の伝統的な商家の典型です。
「おたすけ蔵」は、大通り側から東蔵、中蔵、西蔵の順に三棟が並行して並び、いずれも二階建の切妻・妻入りで、屋根は桟瓦葺、外壁は土蔵造りに黒漆喰仕上げです。規模は東蔵と中蔵が梁間2間半(約4.5m)、桁行6間(約10.9m)、西蔵は梁間3間(約5.5m)、桁行8間(約14.5m)で、各棟とも南側に観音開扉の戸口を設け、前面には三棟連続の下屋庇を架けて正面に格子を立てています。内部は、天井を張らず小屋組を表し、壁は全て土蔵の上に竪板貼りとなっています。土蔵の壁は厚さ約28cmで、竹を格子に組んで荒縄で結んだ下地(竹木舞)に土を塗り込め、漆喰塗によって仕上げたもので、20以上の行程を要します。屋根瓦は、栃木市箱森町周辺で生産されたものです。これら栃木瓦は、文政年間(1818~1830)に三州(三河国)から来た職人によって始められたと伝えられており、幕末頃からの蔵造り建物の普及に伴い需要も増大しました。
蔵の建築年代は、東蔵が床板の墨書銘により文化年間(1804~1818)初期、中蔵が内部の落書により天保2年(1831)年以前、西蔵が床板の墨書銘により天保11年(1840)であることが判明しており、栃木市に現存する多数の蔵造りの建物の中でも最古の土蔵群です。
幕末期は、栃木町にとって多難な時期でした。弘化3年(1846)、嘉永2年(1849)、文久2年(1862)と火事が続き、元治元年(1864)には水戸天狗党の田中愿蔵により焼き射ちを受けています(「愿蔵火事」)。それに加えて、幕末期には物価がどんどん上昇し、栃木町内に居住する民衆の生活は苦しくなっていました。この頃、円説・善野喜兵衛・善野佐次兵衛などの町内の富豪たちは「施行」としてたびたび米や銭を困窮人救済のために差し出しています。慶応2年(1866)9月にも「施行」が行われています。「施行」の範囲は、栃木町の上町・中町・下町・横町と周辺地域にも及び、一軒に5寛文ずつ497軒に、そのなかでも極困窮人12人には一両ずつ施行しています。 幕末期の栃木町では、施行を受けなければ生活していけないような「地借・店借」層が多数存在し、円説・喜兵衛・佐次兵衛ら町内の富豪たちの施行により町の秩序が維持されていました。